街を出てみよう 今住んでるこの街が 

 

美しく緑におおわれた

 

心の故郷だったとしても

 

街を出てみよう

 

汽車にのってみよう


これは先日、FMがいや「村田蔵六とフォークを語ろう」で掛かったよしだたくろうの「こうき心」と言う歌である。相方の若い女性パーソナリティーは、この歌を知らなかったようだが、わしは丁度中学生の頃、袋町の山本ラジオ蓄音機店で買った、「青春の唄」と言うやたら赤っぽいLPの中に入っていたのを思い出す。

 

今まで住み慣れた町を出て一人暮らしをして、今の友人と別れて、知らない人と新たに友達になるなんてわしには無理だと思っていた。

何せ小学校時代は遊ぶ相手も居なく休み時間は教室で黙々と(マンがの)本を読んでいた。心配した先生がクラス会で「まーきみと遊んであげて欲しい」と提案したくらいだから。

(余談だが、当時の教室に備え付けられた小さな本棚には、各児童が家から持ち寄った漫画本が置かれていた。今なら信じられないことだが・・)

 

さて、高校には仲良しの友達の多くと一緒になったが、就職は遠く愛知県のある会社に一人で就職することになった。学校の方針で例え複数人の求人があっても、一人しか送り込まないのが鉄則になっていた。もし二人送り込むことになると、どうしても仲良し同士が申し込んだり、そして一方が不採用になると他の一方も辞退したりと色々支障があるようだ。事実わしの行った会社にもそのような理由で就職辞退した女子が居たらしい。

 

話をしてみよう 今は話てるその人たちが

 

やさしく心をうちあけた 

 

愛すべき人たちだったとしても

 

話をしてみよう

 

知らない人の中で



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アイシン精機和泉寮



 

新しい社会に旅立つときは、誰も知らない方が会社にも本人にもためになるという話は複数の人から聞いた。その通りだとは思うが、前記の理由でとても人見知りの激しいわしは、やはり新しい環境に馴染めなくてその年の秋くらいには、ノイローゼになりそうになった。

 

その一つに、寮の同室の先輩(当時は先輩後輩の3人部屋だった)と馴染めず、いつも気まずい思いをしていた。今思えば、変わり者で不愛想なわしをどうにかしてやろうと、あれこれ気を使ってくれてたようだったが・・

 

生意気で頑固なわしは、そんな先輩の気持ちが分からず、いつもふてくされていた。とうとう匙を投げた先輩は、部屋の移動まで寮の管理人に相談した様であった。

 

そして、そんなある日とうとう先輩とぶつかってしまった。大声で怒鳴る先輩にわしが一体何をしたんだろうと不思議な気持ちだったが、そこまで言われるんなら、部屋を替わろうかと決心した。

 


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そんなある日、好景気に沸いた自動車産業の一端を担うわが社では社員を例年より大幅に雇用するようになり、それまで閉鎖してた寮の部屋を22室ほど開放することになった。そして、その後会社の幹部社員になる同期の友人の奔走で、その部屋に気の合う先輩と移転することになった。

その先輩と、直後に入って来た同僚の3人とはその後わしが退職するまで仲良く過ごすことができた。その後中のよい友達もたくさん出来た。これは単に環境が変わっただけではなく、最初の先輩の薫陶のお蔭であることは、その後の色々な人と接していくうちに否が応でも認めるようになった。

 

3年後、会社を去るときはその先輩、鹿児島から来た大迫純一さんの職場まで行って、心を込めて挨拶をした。先輩には大変お世話になりましたと深々と頭を下げた。大迫さんは苦笑して「いじめてばかりで・・」と言われたいた。

 

大迫さん、私がいま生きていられるのもあなたのお蔭です。去年人から聞いた話では今でも定年を延長して会社で元気で働いているそうですね。でも今年あたり退職されるでしょうか?

 

去年、アイシン精機の寮と社屋を見たとき、遠くから改めてお礼を申し上げました。

 

最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。



 

涙を流してみよう 今悲しみの中にあっても

 

涙をこらえて生きてゆく

 

強い人間だったとしても

 

涙を流してみよう

 

瞳を流してみよう