中山池
鯰か?
広い池の無いこの地では、最大級のため池
子供の頃、宮下のさるが池を見た時もびっくりしたけどそれ以上
ここは「さるが池」のカブトムシ
芒がなびく黒井地の池
堤が見えて来た
石碑がある
この池を整備した太宰遊淵(ゆうえん)の事が書かれている
漢字ばっかりだ!
中山池は伊予国宇和郡黒井地村、故村正(庄屋)太宰義祐翁、所開鑿(開削)以寛永四創業歴四歳而(しかして)落成也云
精農工察水利→「農工に精(くわ)しく水利に察(あきら)か」
大事業すなわちその利、数村を洽(うるおす)
以上、解読終わり(^^;)
「新・宇和島の歴史と文化一」に依れば
太宰遊淵は、黒井地の雄、太宰数馬義政の五代の孫で、本名太宰喜左衛門定義といい、中山池構築に功績があった。遊淵は、四代太宰新三郎義延の後を継ぎ、黒井地村庄屋職を拝命した。遊淵の号も宇和島藩より贈られたものといわれる。
古来この地方は水利の便が悪く、多くの土地が荒蕪であることを歎いた遊淵は、溜め池を築いて潅漑に資することを図った。遊淵は、農工に精しく水利にも察らかであった。
宇和島藩の庇護のもと、寛永四(一六二七)年中山池の工を起こし、寛永七(一六三〇)年竣工した。
工事は、予想以上の難工事であったため、遊淵の苦悩も一方でなく、最後は現在の墓地の在る所に静座し、鐘を打ちならしつつ弥陀の名号を唱えて完成を念じ、遂に鐘の音次第に弱まり、竣工日鐘の音の止むと同時にそのまま入定したとも伝えられる。
爾来、黒井地の一部、戸雁、宮野下、務田、迫目の田地を潤すこと数一〇町歩。郷民互に旧来の水利慣行を遵守して侵すことなく、三間地方の中心をなす美田は殆どこの池の恩恵に浴している。
しかし、石碑には太宰義祐と書かれてる。
昭和三六年の新聞記事
黒井地池と書かれている。
游淵の記念碑は明治24年秋吉日
仝群 飯淵貞幹撰
建設作配
故義祐八世孫 太宰義雄
故義祐八世孫 太宰金次郎
成妙村長 兵頭●則
三間村長 兵頭●●
その他の名前
それぞれの時代の記念碑
右は300年記念
左は350年記念
300年は大正15年4月
350年は昭和51年
改修記念は平成5年
黒井地
おまけ
長屋門があった
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