明倫尋常小学校は新築の約一年後、昭和8年7月1日午前1時に放火により校舎の一部を焼失した。

作法室(焼失)

現在の明倫小学校

昭和7年、広小路の宇和島第一尋常小学校は、旧丸穂村新田に移転、明倫尋常小学校と称した。
昭和7年建設の明倫尋常小学校
この広い道の右手は天赦園
真直ぐ行くと宇和島高等女学校がある。
但し建設は明倫尋常小学校よりやや遅れる。
当然ながら国道56号はまだない
当時の新聞によれば
明倫尋常小学校の焼失と御真影奉戴(昭和8年7月1日御前1時)
この時、宇和島高等女学校の宿直室は講堂の真向かいにあったという。
高女の宿直の藤井教諭は異様な物音に飛び起き、北校舎の中央部分が燃えているのを認め、他の宿直員に電話するように指示して、明倫校の宿直室に飛び込んだ。
この時、明倫校の高田國雄訓導(26)と小使いはすでに起きていたが、どうして良いのか分からず呆然としていたという。
藤井教諭は𠮟り付けるようにして高田訓導に講堂の鍵を開けるように怒鳴った。そうしているうちに久保田訓導も来たので、皆で協力して、高女の講堂に御真影と御勅語を安置した
その後、高女の類焼の危険を考慮して、御真影と御勅語は、赤松賢吉明倫小学校校長、警察署長、消防組が警護して、天赦園裏を通り市役所まで奉戴した。(新聞記事より)
明倫小学校の奉安殿は、小学校復興後の事と思われる。
余談だが、警察に最初に一報したのは築地の花街の関係者らしい。

この立派な校舎が、8年の7月1日に、放火により、講堂を残して焼失した。

赤松賢吉校長(三島村小松出身)の談話
何とお詫びしてよいか言葉もありません。一方1700の可愛い児童をおもう時、奮闘起って教育者の任務遂行に努力せねばなりません。
火災は私が来たときは、北側校舎は炎に包まれていました。御真影が気にかかりましたので直ちに奉安してある講堂へ飛び込んだのであったが、幸いに高田訓導が女学校へ奉遷申し上げていたので安心しました。
発火原因については判明しませんがその場所は決して火の気のあるところでないので不思議に思っています。
児童は、高等女学校の旧校舎(現・市立病院)を使用して授業を受ける・・とある。
損害額15万円に対し、火災保険10万円が下りたらしい。
宇和島消防組は、宇和島警察署で緊急会議(当時、消防は警察署の管轄だった)
翌日より一ヶ月非常警戒のため夜警を実施した、とある。
「宇和島義勇消防史」
1日の日付の号外によると、一番最初に警察に通報したのは築地の花街の関係者のようだ。
深夜一時に「かりあげ時」と言うのがあって、みんな外に出るのが日課らしい。
ここで不審に思うのは、火事を見てなぜ消防署に通報せずに警察か?と思うかもしれないが
この時期、消防署はない。
現在の消防署は戦後に設置された「消防団常備部」(常備消防部長ほか八名)がその基になる。
火災や災害にあたるのは「消防組」で指揮は警察署長が執る。

唯一焼失を免れた講堂

講堂 この正面に御真影は安置されていた。

菊のご紋は、ライトアップされるようになっていたと古老の弁
画像は、教育勅語を読んでいる校長と思われる。
余談だがこの講堂はかなり最近まであったらしい。
その三年後、放火犯が捕まった。
全国を股に掛け、文化財や学校など、大きな建物ばかりを放火した放火犯史上特筆される凶悪犯。
なんと逮捕された場所は宇和島市であった。
当時、全国で指名手配されていた犯人古川義雄は、昭和11年5月22日、宇和島の天神町の木賃宿「大和屋」に潜伏中、高松宮殿下宇和島ご滞在で警戒態勢中の宇和島署員が発見、逮捕した。
調べに対し「宇和島城を焼きに来た」と自供したと言う。
宇和島署始まって以来の大捕り物であったろう。
明倫小学校はその翌年新築され、戦災にも逢わずに昭和57年に三代目となる現在の校舎になった。
焼け残った奉安殿(御真影を保存した建物)は、かなり最近まで現存したと、撤去に携わった大工さんが話していた。

昭和八年九月
戎山協議録
「明倫校火災寄附總部落で拾円ヲ市学務課に送金ス」

ささき整体施術院
愛媛県宇和島市坂下津乙18-5
電話番号 0895-23-7177
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とんでもない写真が出てきた
貰った写真の中から、
明倫尋常小学校
昭和7年4月に移転したが、翌年8月、放火により焼失の憂き目に遭う。
故に珍しい画像だ。
明倫小学校の焼失

正面玄関に足場がある

この道路は、佐伯町方面より南中学(現在)に行く道
向かって右側に天赦園がある
国道はまだ畑


現在の国道65号の位置は、ずいぶん低く畑だった。
鶴島小学校や南高校の一部の運動場は、私たちが通っている頃は一段低かった記憶がある
順々に、この校舎を基準位に埋め立てられた

この松は天赦園かな
少し撮影場所が変わった

東の校舎?

これが焼失した北側の校舎かな?
屋根の上に天赦園の木

西から?







骨組み
※ すべては想像のため、或は明倫小学校以外のものも混ざっているかもしれません。

左方が天赦園?


基礎

工事前かな?

地鎮祭と思われる画像
赤松賢吉校長と思われる人物がいるので

浚渫船、宇和丸

これも新築工事と関係あるのかな

東から
正面に見えるのが講堂

内部

落成記念??


あの菊の御紋の奥に、ご真影があったらしい
教育勅語を読み上げてる処かな?


奉安殿
火災時、新聞記事の赤松賢吉校長の談話に
「御真影が気にかかりましたので直ちに奉安してある講堂へ飛び込んだのであったが、幸いに高田訓導が女学校へ奉遷申し上げていたので安心しました。」
と、ある。
当時の風聞に「校長が血相変えて講堂に飛び込んだ」と言うのは、この時の事を言うのであろうか。

このあたり。
この奉安殿は、戦後しばらくはあったらしい。


昭和9年3月の卒業記念

14年3月の卒業記念
以下アルバムより


奉安殿が建っている

火災以前の写真と微妙に違う?



少年Mのアルバム
ここに戦後の明倫小学校の写真がある

昭和35年の写真(少年Mのアルバムから)
講堂の前
奉安殿は木に覆われている。

(少年Mのアルバムから2)
講堂と、再建された北校舎

(少年Mのアルバムから)3
明倫小学校は今年、創立120年を迎えるらしい
終わり
追記
第一小学校の頃
明治23年1月には広小路の旧家老桜田佐渡の屋敷に町立宇和島尋常小学校が新築されこれが落成式を挙行した。校庭が広いのと「工」の字型の新校舎の立派なのに町民は驚いたという。

明治23年、宇和島尋常小学校が建てられた辺り(現・宍戸医院)
時代はそれから幾星霜を経て明治32年となった。町長土居礼の末期である。
宇和島町では教育の振興を期すために初めて高等小学校を単置することになった。場所は丸之内の旧竟成小学校で校舎はこの時新築した。無論男女の共学である。
然るに町会方面から「男女各々進むべき道を異にしている。それを共学制度にするのは教育の能率をあげる所以ではない」と批判の声が上がりだした。明治37年になると男女を分けて授業をすることになり、高等科単科を廃した。
それに代わって併置の方針を樹て広小路の尋常小学校を改めて男子尋常高等小学校となし、丸之内の単置校の跡に、女子尋常高等小学校を新設したのである。
やがて明治も終り大正時代となった。これより先、男子校には高橋彦之丞がそのまま居残ったが明治44年4月の異動で吉田町に去り、後任には北宇和郡三島村出身の赤松和江が来任した。北宇和郡視学の清家吉次郎の力が預かって大をなしたということである。
女子校長には津島郷立尋常高等小学校長の兵頭賢一が転入してきた。2人の性格は人間的にも、また教育方針にもかなりの相違点があったが、何れも教育者とし ての強い情熱と高い見識を持ち、それを実践した処は両者共通のものがあった。而して宇和島教育界に早くも黄金時代を現出するに至ったのである。
赤松校長の下からは後に和霊校長二宮弥助の如き、明倫校長山口久米助の如き有為の人材が輩出し、女子校の如きは当時破格ともいうべき文部省の選奨を受けた。即ち模範校になったわけである。
個人としては2人共に他に先駆けて奉任待遇となり叙位の沙汰を受けた。
「宇和島の明治大正史」より引用







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