その昔坂下津小学校は、坂下津のお堂の敷地内にあったと聞いた
青年奉仕 庭師 横田喜太郎 昭和3年3月
宇和島市誌に拠れば
明治20年 坂下津簡易小学校
明治23年 坂下津分校
明治25年 坂下津尋常小学校
昭和2年、第二小学校へ委託

大正4年の「南予人士写真帖」より
九島村坂下津尋常小学校校長 志賀又夫の写真があった

尋常6年
次屋藤治
「勤倹強調運動の概況」の中に掲載されていた
その後、これに関係する書類発見
偶然発見された、坂下津小学校教員住宅の図面
校長居宅 宿直室など
それは下記の契約書の添付図面と思われる
北宇和郡九島村
戎山部落
右区長 早川武助
北宇和郡九島村
坂下津部落
右区長 中川勝太郎
右戎山部落と坂下津部落と左の契約を締結す
第一条 坂下津小学校建築物及び教員住宅 土地代金〇百四拾円〇七銭無償 坂下津部落に贈与す
第二条 青年補習学校は戎山部落の為に集会など?に充つべく無賃にて貸与す
第三条 青年補習学校の備品費は坂下津部落の負担とす
第四条 青年訓練など?必要の場合に於いては坂下津部落の負担を以て設備す
右条々双方遵守〇〇の〇左に署名捺印の上各自保管するもの成
昭和5年3月
右戎山部落
代表者 木下音松
右 坂下津部落
代表者 (空欄)
司法代書人 渡邊静夫
山村豊次郎傳によれば、
昭和2年より、坂下津小学校の児童生徒は、隣の宇和島市の第二小学校へ委託教授されたとあるので、上記の小学校は閉校になったと思われる。
これは2年の第二小学校への児童委託後
青年補習学校の校舎として使われたという証ではないかと想像したら説明が付く。
さらに
坂下津小学校は、石応小学校の分校として、坂下津、戎山、保手の子弟が通っていたこと。
当時生徒は100人教員は男の校長と、女性の代教員、僅か2部屋の学校だと言う事が、同校の卒業生である梶原計国氏が、「愛弟伝也の死」と言うコラムの中書いている。貴重な情報である。
35年
さらに「宇和島教育史」によると
◎坂下津のようす
明治8年、盈進(えいしん)小学校第二分教場として、お大師堂に設けられた。
明治20年、坂下津小学校
明治23年、石応簡易小学校第三分教場
明治25年坂下津尋常小学校となり明倫校に合併するまで続いた、とあるが、山村豊次郎傳における宇和島市との合併協議の文章とは矛盾する
陳情書
「吾々二部落は、宇和島市との合併を希望し、これを為すに非ざれば、吾が部落の向上発展は期せども望めざるの現状にあり宇和支庁当局においても、吾らの苦衷を諒察せられ一日も早くこの問題を解決する様御取計いあらんことを望む。右連署捺印の上陳情候成」
昭和2年10月16日
合併委員長 梶原計國
理由書
「吾々二部落は、宇和島市との合併を希望し、これを為すに非ざれば、吾が部落の向上発展は期せども望めざるの現状にあり宇和支庁当局においても、吾らの苦衷を諒察せられ一日も早くこの問題を解決する様御取計いあらんことを望む。右連署捺印の上陳情候成」
昭和2年10月16日
合併委員長 梶原計國
理由書
我々二部落の合併は多年の懸案にして既に大正12年には保手戎山において村当局に稟申書を提出せし次第なるもそのまま放任され今日に至るは実に遺憾とする所なり。
これを地勢状より観るも僅かに一町に過ぎざる河川によりて区分され種々行政上の便宜に於いて九島村役場に行くより宇和島市役所に行く事が簡易にして便利なるは明らかである。
最も注意すべきは近き将来に来村川は坂下津へ貫流すべく付け替えらるると聞く。
斯くなる時は当然に宇和島市と接続するは明らかにして道路橋梁なども完全を期し時代の要求は副わねばならぬ。
さらに、小学校の事にも触れてある
然るに現在のままに放任する時は百年一日の如くこの部落の発展を望む事は不可能である。
事に教育に於いては狭小なる学校において教育を施すは子女の幸福に非ずと本年4月以降小学児童の総ては宇和島市の第二小学校(丸之内JT辺りにあった。後の鶴島小学校)委託教授をなしつつある現状にしてこれ既に行政上合併したるも同様なり。さらに、小学校の事にも触れてある
然るに現在のままに放任する時は百年一日の如くこの部落の発展を望む事は不可能である。
坂下津小学校の児童生徒は、九島村合併の昭和9年に完成した来村川最下流の「九島橋」(のちの板島橋」の恩恵を受けた。
昭和29年戎山青年団発足
鶴島校区公民館長、小島朔(はじめ)氏自宅(現・田中氏)
これより先はプライベートモードに設定されています。閲覧するには許可ユーザーでログインが必要です。
コメント