樺崎から宇和島中学



東宮殿下(昭和天皇)が宇和島に行啓されたのは大正11年11月25日である。

前年、殿下は彼の欧州視察に赴かれたが、秘書官として宇和島出身の二荒芳徳が随行して後に「御外遊記」を出版した。
二荒伯爵と旧藩主伊達宗陳前侯爵夫妻、そして枢密院顧問官、穂積陳重博士も随行した。

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東宮殿下は、軍艦「伊勢」をお召し艦として樺崎に到着

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この後、宇和島行啓でひとつのハプニングがあった。




東宮殿下御巡幸の際の御列に於いて、県の通達による宇和島市長の順位はずっと下位であったが、なぜか当日、殿下のすぐ後ろを山村市長が歩いていて市民は驚いたとある。


殿下奉迎の日の市民の緊張と感激については次節に記述の通りであるが、これに先立って書きたいことは、殿下がお召鑑から樺崎へご上陸の際、突如として殿下扈従(こしょう)の御列の順位が変更された事である。
穂積博士が山村市長に語ったところによると

「殿下は宇和島に御巡幸あそばしたのであるから市民の代表たる市長が上位に着くのは当然で県の決定は以ての外の無礼である」と言って変更したとある。これに先立つ松山での御巡幸では加藤恒忠市長が県の決定に憤慨し、一般人に混ざって奉迎したと言う事であった。

以下引用
「これは予てから県から市へ通牒された御列の順位は、まず宮内大臣以下の宮内官、東宮係官、それから伊達候、二荒伯、穂積男、知事、群長、市長といった順位を急に変更して、殿下のすぐ御後に扈従(こしょう)すべきは市長であると訂正され、従ってすべての順位が次節記述の通りになったのであるが、これに就いて一般の奉迎市民は唯実際の御列を知るのみに止まり何故に県の指示が覆されたか、何れの人がこの訂正を主張したのかの事情を知るものは無かったのである。然るにその後大正14年4月15日枢密院議長の栄職在任中に薨去された穂積男爵を追悼する山村市長の談話によって初めて当時の一切の事情が世間に公表されたので市民が初めて知ったその事情は穂積老博士の自治体尊重に関する法理的の信念が如何に根強いものであったか、又愛郷の至誠がいかに熾烈であったかを称する逸話の数々であり(以下略)」山村豊次郎傳

東宮殿下は市内を回り宇和島中学(現・宇和島東高校)へ向かう


当時の直通道路(後の朝日町)を一直線に船大工町、恵美須町を経て袋町を1,2丁目の辻まで上がり右折して市役所前から丸之内、堀端通りに出て一直線に南下して御休息所に当てられた県立宇和島中学へお着きになったのが9時55分であった。



宇和島中学、宇和島商業学校、宇和島高等女学校、宇和島実科女学校、小学校高等科3800余名

南予各郡の町村有力者、各学校教職員800余名

総計3610名



御座所は校長室に金屏風を巡らせてこれにあてた

拝謁者
伊達宗陳、穂積陳重、二荒芳徳、山村豊次郎、井上源一、渡邊修、矢野丑乙、中原渉

前田次郎、稲井昌光、二教諭の実地授業を臺覧(だいらん)、次いで講堂の陳列品を臺覧(だいらん)、特に清満村の二重柿に特別の注意を払われ二荒伯を通じ御苑内に御栽培の思し召しにて品種謙譲の御沙汰あり出品者は光栄に感激した、とある。

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大正9年の宇和島中学の写真

左方の建物が武道場



以下引用
「それより校庭の御野立所に歩を移され、校庭の中央、武道場前の広場に北向に設けられた御野立所に建たせられた。高さ三尺、九尺四方の檀上に白布の卓を置き、壇下の左右に随行顯(顕)官諸氏の椅子席あり、御卓から10米の地点に一線を画し線外に向かって左方(東)に市長村長其の他の地方有志、右側は青年団、中央は東より宇中、宇商、第一、第二、第四、第五の市立小学校高学年(第三校は新設のため当時高学年無し)実家女学校、高等女学校の順に奉迎歌合唱の学生が整列して殿下の御出場を御待受していたので、直ちに指揮官の号令下に全員敬礼、次いで整列の男女学生八百余名は声をそろえて高らかに左の奉迎歌を合唱したのであった。


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皇太子殿下奉迎歌

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ひんがしの空 高くはるけく 仰ぎまつれる 日嗣の皇子は 
みんなみの海に 波の穂わけて いまわが里に たたせたまへり

あやにかしこき 光にあひて 草木の色も みな若やぎぬ 
神代もきかぬ けうのほまれは わが宇和島の とはのほこりぞ

とうとき御かげ おろがみまつる この日の栄(はえ)を いつかわすれん 
二名の島を めぐり見ませる このいでましを いつかわすれん


次いで山村市長の発声により参列者一同「皇太子殿下万歳」を三唱し、殿下はご機嫌麗しく御会釈を賜いてご退場、御出門の前に東原校長により記念樹の御願を申出て校門に近き玄関脇に松樹のお手植えがあった。」
山村豊次郎傳

因みに奉迎歌は、穂積陳重夫人、歌子(渋沢栄一娘)の作詞であることはあまり知られていない。


武徳殿へ


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その後、前述の奉迎歌、万歳三唱の後、武徳殿の地方物産陳列場に向かわれたのち、天赦園にて休息された。



昭和48年解体

天赦園

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天赦園で八ツ鹿をご覧になる殿下(村田蔵六氏提供)

家串の荒獅子もご覧になった。


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ここには伊達候夫妻の奉仕する御昼食の準備もあり、御慰安の地方名物八ツ鹿踊の臺覧(だいらん)もあり、その他園内の御逍遥に随身して親しく静かに進言する穂積男の郷土談義を御聴取ありて、


上記の穂積博士の郷土談義については、死後宇和島市民あてに残された遺書により後年明らかになった

宇和島市民諸君へ

私は大正11年11月25日皇太子殿下が我が宇和島市へ行啓に相成ったとき、天赦園ご散策中陪席して地方の人情風俗に付き種々御下問に奉答しましたがその中に諸君の事については左の如く申し上げておきました。

宇和島市民の特色は、資性敦厚(しせいとんこう)にして公共心に富んでいる事であります。
殊に当市の主なる実業家は皆社会の牛耳を執り公共事業の振興には非常に熱心に尽力致しますからこれが為にこの僻遠なる地も教育、産業その他百般の事業もその進歩が極めて著しゅうございます。

無論この地方にも政党政派もありますが、これが為に他の地方に往々見る如き弊は少しも認められません。市の公共事業まで国策に関する政権の異闘を及ぼす事なく、何事についても相談が纏まり同心協力の実が挙がる様であります。

市会議員並びに実業家の態度は只今の所では極めて満足であります。この宇和島には所謂我利我利と申す様な事業家は無い様であります。

或いは有るかもしれませんが彼等は影を潜めておりまして、往々他の地方において観る如く金力を以って幅を利かしているとい如き者は無いようであります。
この宇和島の近年の進歩は、全く市民が公共心に富んで居って何事に付けても同心協力の実が挙がるからであります。云々

殿下は池の西方にある大藤の株の横たわれるに御腰を掛けさせられ、いと御満足げに縷々お肯きに相成り、尚農村の事についても1,2ご下問がありました。
右の如く我同郷諸君の愛郷心に付いては諸君の郷里の地に行啓あった節、親しく台聞に達しておきました。この事を御忘れない様願います。
大正11年12月5日 
帰京の翌日記 穂積陳重

一次資料「山村豊次郎傅」 


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鶴島神苑ー天守閣



御予定の如く、午後1時、御休憩所を立たせ給ひ、伊達(宗陳)侯爵の御先導にて城山に向かはせられ、途中鶴島神苑(現、護国神社)に設けられたる御野立所に立たせられて御慰物を台覧遊ばされ、


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南豫護国神社







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駒犬の向こうにある石碑

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東宮殿下御野立所


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大正11年11月25日

東宮殿下御巡遊の時当所ニ於テ御慰物台覧アラセラル


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山村豊次郎傳には鶴島神社での臺覧(だいらん)は記されてなかったが、村田蔵六さんから贈呈のあった本に詳しく記されていた。



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宇和島城沿革(兵頭賢一著)


それによると鶴島公園で臺覧があったようだ。

以下引用
御予定の如く、午後1時、御休憩所を立たせ給ひ、伊達(宗陳)侯爵の御先導にて城山に向かはせられ、途中鶴島神苑に設けられたる御野立所に立たせられて御慰物を台覧遊ばされ、終わって城山坂下門より御徒歩にて御登山、予定時刻に先立つこと8分、すなわち午後1時27分本丸に御着、直に天守閣に入らせられ、各種陳列品を台覧遊ばされること約15分、この台覧が終わると、本丸に設けられたる御休憩所に入らせられ宮内大臣以下共奉員を随へられ御休憩遊ばされた。
この時侯爵から特別献立の御茶菓を献上せられた。御座は芳香馥郁たる菊花を以て飾った中央の卓子の西方であって、殿下の御右には侯爵夫人、御左に侯爵、御真向には市長山村豊次郎氏の席があり、その他牧野宮内大臣、宮崎知事、奈良武官長、穂積男爵、入江侍従長、の御陪席であった。
殿下にはご機嫌も美しく種々の御物語など遊ばされ非常に御満足の御模様に拝せられた云々

斯くて御予定の時刻なる午後2時15分、再び御徒歩御下山遊ばされ、坂下門外にてご乗車、数萬の拝観者の熱誠を籠めたる奉送裏に御順路を樺崎に向かわせられた云々




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昭和6年の地図

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鶴島神社(大正時代)





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天守閣へ

以下、山村豊次郎傳引用
前後約2時間の御休息の後、鶴島神苑に御俥を停められ、市長からの出願の御手植樹を同公園に残されてから城山登山口に御着、御徒歩にて城山に御登山あり、頂上天守閣前にて伊達候奉仕のお茶の卓が開かれた。

ここでは一しきり市内の御展望がありて御卓に就かれ約40分間の御休息中に長くも山村市長に対し種々の御下問があった








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これについて穂積男は予め殿下の直前に市長席をつくり奉答に便する如く取り計らったのであるが、山村市長としては鞠躬(きっきゅう)如として顕官為政者が並ぶ席に殿下の御直前に着席する面映ゆさを感じ、例に依って尚ためらいの色あるを看取した穂積男、笑いながらも市長注意して曰く「主人役が早く着席なさらぬと殿下はお待ちになっている」との一言に有無を言わさず反射的バネ仕掛の如く倉惶(そうこう)として着席したであろうことが想像される


そして昭和41年、三度宇和島の地をご訪問された昭和天皇の特集新聞記事に、大正時代、皇太子をお迎えした城山で接待役を務めた女学生の談話が掲載された。

この時接待役を務めた女学生は、実科女学校専攻科から5名、高等女学校から13名。

人選には慎重を期し、良家の令嬢を選んだと言う。

元結掛の履物店を経営するM夫人の話では、


「何しろ古い事なので記憶も薄れていますが、確か殿下は学習院制服のようなものをお召しになっていました。二荒伯や穂積先生などが、いらっしゃったことをはっきり覚えています。
お城山で今で言うガーデン・パーティをしまして、5,6人づつ大きなテーブルを7つくらい用意して、紅茶やミカンのジュースを差し上げた事を覚えています。
東京の精養軒から立派なコックさんやボーイさんがついてきておりました。ジュースと申して今のように機械でつくったものではなく、立間のミカンを手でしぼったのではないでしょうか。
また殿下の御椅子には菊の御紋章が付いていました。
殿下は山村市長や二荒伯、穂積先生たちとご歓談になっており、天守閣にもお入りになりました。
私はちょうど、殿下のテーブルの係りになりましたが、伊達家から下さった当日の衣装は、紋入りの長袖、エビ茶のはかま、それに靴と言うものでした。その紋付は今でも大切に持っています。何しろ緊張しまして体が固くなったものです。」

殿下は天赦園で八つ鹿踊り、家串の荒獅子をご見物になって「この荒獅子は全国でも非常に珍しく、また八つ鹿は優美なものだ」と感想を述べられ、徒歩で城山へお登りになり頂上で、女学生たちの御接待によって、東京築地精養軒のコックが腕を振るったビスケット、サンドイッチ、カナツペ、紅茶など(記録によると一人前2円50銭)をお召しになり午後2時15分御下山、2時55分に水雷艇、同5時30分多数がお見送りする中を、ご離宇になった。
かなりの強行スケジュールだが、八つ鹿踊りの少年たちにもいちいち挙手の礼をなさるなど、青年殿下らし御活発な動作に、関係者は深く感動したと伝わっている。

41年の新聞記事より


以下山村豊次郎の談話
「この時、殿下は畏くも自分に向はされ、市長は何時就任したのかとの御下問があったので、奉答申し上げると、穂積男は、山村は実業界の各方面に関係して居りましたから市長になりますについては周囲の事情却々(なかなか)困難でありましたが終に輿望(よぼう)の綱を持って引き出したものであります。市制実施の当初に当たって市政が円満に運んでいることは郷党の喜びに堪えぬところでありますと言上され自分は傍らにあって冷汗の前身を流るるを覚えた。」



大正11年地図カラー

御順路(大正11年地図より)


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かくて2時15分御帰艦の順路は堀端通を追手まで進まれて本町に入り、2、3,4,5丁目を一直線に向新町を経て恵美須町以西は御往路と同じく、一路樺崎御上がり場へ御着、一同の奉送裡に艦載水雷艇に御乗船、これより途中会場に於いて特に準備された沿岸漁村青年の和船競争を臺覧ありて御満足げに御召艦伊勢に御帰艦、伊達の十万石、宇和島の地を後にせられた。


終り

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ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 3,500円

完全予約制




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