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須賀川ダム

昭和51年4月1日運用開始


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その直前に最後の断水があるかもしれないと新聞報道があったが


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昭和49年以降、断水は無かった。


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ダムから国道を、少し行くと


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須賀川ダム 柿原浄水場 完工記念碑


記念碑碑文

大正15年に創立された柿原水源地は、その当時四国に誇る近代的な施設であったが、その後、増加する水の需要と宿命的な干魃のため、断水の不安を招く状態となった。

宇和島市はこの対策として、水源地の改良と拡張工事をあいついで実施したが、いずれも応急的な補強にとどまり、ついに年ごとに慢性的な水不足に苦しまねばならなかった。

戦後はこの傾向がさらに深刻となり、30年間の断水延べ九〇〇日を越える状況であり、特に昭和四二年の夏は、八〇年来の大干魃におそわれて、断水五八日におよび、市民の生活に大きな打撃を与えたのであった。

この窮状を打開するため、宇和島市は水系調査委員会を設置し、水源を須賀川水系の上流に求める大規模な多目的ダム建設の抜本的計画を策定した。

この方針の早期実現を目指して、市長はじめ市議会・水系調査委員会は、その総力を挙げて、県および国に対して強力な陳情を繰り返した。

かくて苦節六年にわたる努力の結果、ダム建設は県の須賀川総合開発事業として具体化し、これに関連する国道付け替え事業と、上水道第三次拡張計画による新浄水場の建設もあいついで認められた。

この間に用地買収と損失補填等の折衝で一時難航したが、関係者の大局的な理解によって円満に解決することが出来た。

この歴史的な大事業は、着工以来二ヶ年余り、あらゆる近代的技術を駆使して、昭和五一年三月に完成し、同年五月一日市民待望の水が初めて各家庭に送られたのである。

ここを訪れる人びとは、建設の苦心を深く偲ぶとともに、この事業の陰に、長年住みなれた家屋敷や父祖伝来の田畑を、この湖底と関連施設の下に埋没された地元関係者の尊い犠牲的な協力のあったことを、決して忘れることは出来ないであろう。

豊かな水を求める、宇和島市民多年の悲願は、ついにかなえられた。

このために日夜心魂を砕いた当局の苦心と努力は、多くの人びとの誠意と協力によって報われたのである。

ここにこの事業の完成を記念して、経過の大要を刻し、全市民の限りない喜びと感謝の意をこめて、この碑を建設する。

昭和五四年二月 須加川ダム柿原浄水場完成記念事業実施委員会

愛媛県知事 白石春樹題字



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須加川ダムの天端


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この上から市内が一望できる


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そこから見下ろした左岸の一角に、プールと公園がある。

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プール


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下流に行くと

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遊園地


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柿原児童遊園

宇和島市の設置した看板がある。

と言う事はここは市有地

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公園からはダム堰堤が見える


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その入り口に


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用地寄贈者

昭和50年5月

松山市
坪内壽夫

その坪内氏

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奥道後のホテルのロビーに掲げられた坪内氏の肖像


坪内氏と言えば、くるしまドック社長、佐世保重工社長など、造船を初めとする事業化と言うイメージがあったが


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戦後、映画館経営で名を馳せた。

昭和30年、宇和島市に東映を立ち上げる。

宇和島市最後の頃の映画館、菊みど里、東映も坪内グループであったことは、ある年代の宇和島市民はよく知っていると思う。



さて、上記の碑文の一文を再掲載

この間に用地買収と損失補填等の折衝で一時難航したが、関係者の大局的な理解によって円満に解決することが出来た。

さらに当時の新聞(昭和49年10月)に、最後の地権者、宇和島造船がその社員住宅の買収に応じ県庁で調印したことが掲載されている。

交渉に当たった市会議員の谷松氏の談話があった


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三地主は県収用委の裁定に従って解決をみたものの造船アパートは未解決のまま今日に至っていた。
そこへ調印の知らせが届いたわけで、同市議はもとより市でも欣喜雀躍の態だ。



宇和島市誌にこの土地収用の事が書かれている

(六)柿原児童遊園地
ダム建設のため、来島ドック株式会社・宇和島造船株式会社の坪内寿夫社長が所有する社員住宅の立ち退きが必要になったが、白石春樹愛媛県知事との特殊な事情により承諾が得られず、愛媛県は遂に土地収用に係る手続きをとるに至った。

この事態を憂慮した山本市長は打開方法を模索し、田中千里助役、川井又一郎水系調査委員長、谷松豊繁同副委員長(何れも市議)を坪内社長との交渉にあたらせた。

須賀川ダムの必要性について、夜を徹し誠意を持ってお願いしたところ交渉が成功したうえ、柿原児童遊園地になっている五〇〇坪の土地も宇和島市に寄付して頂けることになった。
ダム本体付近に農業用の取水堰があり、堰の上流側が自然のプールになり、下流側が甲羅干しをする石畳という、柿原の子供達の絶好の水遊び場があったが、ダム建設により水没した。

このため、柿原地区の生活環境整備事業として、坪内寿夫社長より寄付して頂いた土地に、自動プール、スベリ台、ブランコ等を備えた柿原児童遊園地を新設し、昭和五一年(1976)八月七日に開園式を行った。
宇和島市誌 第八編都市整備 第一章水資源開発


尚、新聞には上記の事には触れられていないが、当時は白石知事と坪内社長は同郷で白石氏の選挙応援もしていたほど親密であったが、奥道後開発などを巡り軋轢が生じ、犬猿の仲であった。
愛媛県庁による、日刊新愛媛取材拒否などにその不仲ぶりを知ることが出来る。


宇和島市議、川井又一郎の手記には、その交渉内容が事細かく記されている


以下引用
私と谷松君、それに助役の田中君、三人で持田町にある坪内社長の私邸に氏を訪ねたのであるが、半日余り氏と、政治家の連携に係る話を聞かされたのである。

(中略)

また、氏と県との確執に至っては、奥道後建設時における高圧送電線の問題に端を発するとともに、県道建設についての由来から、白石知事との幼友達時代より第一回目の選挙に至るまでの応援の経過、それ以降の確執の実態、あげくの果には知事の周辺における部下の実態についてまで、私たちはかしこまって数時間にわたって拝聴をしたのであった。

(中略)

その後、具体的な問題の取り扱いについては、奥道後にある事務所で行われほとんど夜を徹して続けられ、三人が宿舎に帰ったのは、もう朝日が出ている頃であった。

中略

それから若干の日時を経過し、坪内社長から最後の返事がなされるとのことであり、急遽上松するときになって、私が過労のために発熱してしまい仕方なく、谷松君と田中助役が社長に面会となったのであるが、帰っての報告によると、交渉は大成功であり、しかもおまけに現在、柿原児童遊園地になっている五〇〇坪の土地も市に寄付してもらうことになったのである。

また、その時に社長が言われた言葉が大変な意味を持つものであった。それは次の通りである。

「君等には負けた。川井、谷松と言う人間は、勧進帳に出てくる弁慶と同様である」

と言われたとのことであった。

二回に及ぶ会談に於いては県知事をかばい、市長をかばい、只あるものは、須賀川ダムの建設という事のみであったから、社長はそのように感じられたのであろう。その当時、坪内社長と言えば飛ぶ鳥を落とす勢いの時の人でもあったので猶更の事であった。
後にある人いわく

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「愛媛県で坪内に勝ったのは、宇和島市の川井と谷松だけである」

とも批評されたのは今にもって、良くも坪内社長に向かって交渉をしたものだと冷汗をかく一齣でもあったのである。

川井又一郎著「水を求めて」より抜粋。



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昭和四二年


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公園を見守る延命地蔵


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sasaki

ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 3,500円

完全予約制




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碑文

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