新しい道路建設中
あそこに石仏が
肱川沿いに広範囲に設置されている
さらに進む
鹿野川橋
昭和31年3月
この頃は、鹿野川ダムの建設中
鹿野川は、川の名前ではない。山鳥坂という大字に含まれる、いわゆる小字である。
以下「えひめの記憶」から引用
この肱川町の中心集落となったのが鹿野川である。鹿野川は肱川中流で河辺川が合流する谷口にあり、昭和の初めまで大字山鳥坂に属する小さな集落で、数戸の商店があるにすぎなかった。ところが、大正13年(1924年)に大洲からの県道が開通し、この地から予子林と河辺村方向に向かう道が分かれたこと、また、町村の合併や分離によってこの地に役場や定時制高校、大洲土木事務所肱川支所などの公共施設が置かれたことなどによって急速に発展した。また昭和28年(1953年)に鹿野川ダム工事事務所鹿野川出張所が発足し、6年の歳月をかけて鹿野川ダムが建設されたことも鹿野川に活況をもたらした。
山鳥坂村は、明治42年に奥名村と合併して河辺村となる。故にここはもともと、河辺村の区域だった。
川辺、予子林を指す。
川沿いに進む
支所、公民館などがある
改装中か
公民館はその昔、映画館があった場所。
映画館の名前は「新生館」と言った。
以下、「えひめの記憶」から引用
昭和30年代前半にこちらにいたころは、映画を観るために新生館には毎日行っていました(図表1-1-2の㋒参照)。値段は忘れましたが、3本立てでした。大洲にも映画館がありましたが、新生館はシネマスコープというサイズの広い画面でした。このシネマスコープは大洲の映画館よりも新生館に先にできたことを憶えています。そのころはダムで潤っていたのでしょう。
私が高校生のころは、大洲に住んでいる高校の友人たちも『今度の日曜日には鹿野川に映画を観に行く。』とよく言っていました。大洲よりもこちらの方が先に新作映画が封切りされていたからです。また大洲では先生の目も厳しかったですが、こちらには先生の目が届かないということもあったのかもしれません。先生に見つかるわけでもないのでみんなが安心して映画を観るために、大洲から来る友人も大勢いました。」
私が高校生のころは、大洲に住んでいる高校の友人たちも『今度の日曜日には鹿野川に映画を観に行く。』とよく言っていました。大洲よりもこちらの方が先に新作映画が封切りされていたからです。また大洲では先生の目も厳しかったですが、こちらには先生の目が届かないということもあったのかもしれません。先生に見つかるわけでもないのでみんなが安心して映画を観るために、大洲から来る友人も大勢いました。」
旧店舗は、商店街の中心部にあった。
商店街を抜けて、バス駅があったところ
和氣郁太郎君功労表彰碑
大正14年
和氣氏は河辺村村長、山鳥坂の酒造業者
鹿野川という地名は実は存在せず、この辺りは「大字山鳥坂」
そしてここは、山鳥坂村が奥名村と合併して河辺村となった明治42年から、戦時中一時(昭和18年)、肱川村となったが昭和26年ふたたび分村独立した。この時山鳥坂は、大成、三久保を除き肱川町の区域となった。
角川地名大辞典によれば、かつては河辺村の役所があり、肱川の合併以後は肱川の役場があった。
この建物は大正14年当時は、河辺村役場だったと思われる。昭和26年以降は肱川町役場となる。
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