愛媛県立高等学校
碑刻は大正8年とある
なんと、澁澤榮一の書である。
二代目 松

平成10年植樹
かつて、穂積陳重、歌子夫妻がこの学校を訪れた事があった。

『千代可けて高記操能師登もな連満奈比の庭に植う留王可松』
(千代かけて高き操の師ともなれ学びの庭に植うる若松)
この歌は、穂積陳重・歌子夫妻が訪問したときに松を植樹して穂積が詠んだと伝えられる。
以下引用
大正6年、この女学校開校の年、宇和島町に帰郷中の穂積夫妻(陳重・歌子)の一日、吉田のこの学校を訪問した。
この時の旅の記を歌子夫人は「宇和の濱徒登はまつと」と題して印行し、記念とされたが、その中で
「山下亀三郎主(ぬし)が、この頃その故郷なる吉田町に建てられる実科高等女学校を参観なしける折、校長の請はれるままにわが夫庭に小松を植ゑて
「千代かけてたかき操の師ともなれまなびの庭にううるわか松」と読み給ひければ
【この松をしるべとなして又も来ん 文(ふみ)の林のしげりあはんとき】
と、この日の事を夫人もものせし歌を添えて記しおられる。
川崎宏(「明治村通信」編集人)昭和54年
さて、濱口誠氏の記憶によれば、この碑はかつて、旧山下女学校の敷地にあったという。
格技場
この向うは山下女学校敷地
吉田藩の竹倉があった場所
校舎はこの辺りだったかな?
昭和53年頃
旧、国安寮
この場所が校舎だった
石材が散乱している
国安寮の右手になる
つづく
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