ふと、こんな歌碑?が目に付いた。
山河に霧たちのぼる鳥の鳴くゆめ(免)ながらよし古里のさま
め、が旧字体、「免」の崩し字で書かれている
ふつうは「女」の崩し字が現代の「め」
松山市役所浮穴支所
ここは、明治22年~昭和34年まで、浮穴村大字森松
さぬきみち
(左の里程標) 手印(右) 大洲宇和島道
郡中江 百丁
松山市森松町下河原五六〇番地武田忠好宅の前に、「さぬきみち」の道標があり、その五m東に「松山札の辻より弐里」の里程石が建っている。道標の石は花崗岩で、幅、奥行とも三〇㎝、高さ地表部分が一六七㎝。文字は正面がさぬきみち川上江三里・右に大洲宇和島道郡中江百町・左に村中安全、世話人は夫婦泉を掘った吉良彦九郎ら六人の名があり、石工は松前の中矢又吉である。郡中江二里とせず百丁としたのは、当時大洲藩では五十丁が一里、松山藩では三十六丁を一里としたためであろう。建立は明治四年(一八七一)である。さて、二里の里程石は前幅一九㎝、奥行一六㎝、高さ一七五㎝で、石は角閃安山岩である。
土佐街道は森松から重信川の堤防に沿って約一㎞上り、尾海武応宅の前から、重信川を横切って広瀬を通って恵原に向かった。広瀬が重信川の左岸(南)でありながら、旧浮穴村高井分であったのは、重信川の旧河道が村界を示すものである。森松の重信川橋が架かったのは、明治三六年(一九〇三)で、昭和二五年生まれの故宮脇先は、橋が架かるまでは、広瀬の渡しを小舟で渡っていたと話してくれた。
土佐街道は森松から重信川の堤防に沿って約一㎞上り、尾海武応宅の前から、重信川を横切って広瀬を通って恵原に向かった。広瀬が重信川の左岸(南)でありながら、旧浮穴村高井分であったのは、重信川の旧河道が村界を示すものである。森松の重信川橋が架かったのは、明治三六年(一九〇三)で、昭和二五年生まれの故宮脇先は、橋が架かるまでは、広瀬の渡しを小舟で渡っていたと話してくれた。
データベース『えひめの記憶』 四 土佐街道
東へ行きます
国道194号
これはかつての伊予鉄道森松線の森松駅跡である
森松線(もりまつせん)は、かつて愛媛県松山市の伊予立花駅(現・いよ立花駅)から森松駅までを結んでいた伊予鉄道の鉄道路線である。
国道33号沿いに重信川北岸を通る路線であった。椿祭り開催日には、臨時列車も運転されていた。乗客の減少により1965年(昭和40年)12月1日に廃止され、跡地は国道33号の拡幅用地になった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
国道33号沿いに重信川北岸を通る路線であった。椿祭り開催日には、臨時列車も運転されていた。乗客の減少により1965年(昭和40年)12月1日に廃止され、跡地は国道33号の拡幅用地になった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
南へ進みます
かつてテレビで紹介されたらしい
古い街並みが続く歴史ある街道
重信橋が見えて来た
つづく
コメント