下原町
原町のうち、麻生村を言う
原町
江戸期からの在村名。浮穴郡のうち。砥部川に沿った地で、麻生村と南の宮内村にかけて発展した在町で、天和年間に大洲藩加藤泰興の命で原野であった当地に町場を造成し、天和2年は19軒の家並みとなり(天和二年町間口改覚)、天文二年には藩は海産物、酒、麹、小間物などの売買を許可し穀物は不許可としている。(天文2年商売御札定書)天和9年には麻生原町(麻生村の町分で下原町と呼び、宮内村の分は上原町と呼ぶ)の市日は3月9日~15日と定められ、文政11年には原町全体で「家数、本門拾五軒・家子門拾七軒・借家門拾六軒」とあり、人口169,町の世話役は門田金次であった。(文政十一年原町故事口伝覚書)家数は享保五年22軒、文政7年27軒で大工・樽屋・鍛冶などの職人も居住した。現在の砥部町大字麻生、宮内の辺り
角川日本地名大辞典
総合福祉センターはらまち
麻生児童館も併設
かなり古い看板
あいさつ通りとかよく聞く名前
原町のバス停
原町(伊予鉄)
伊予原町(JR四国)
伊予が付くのは、JR四国では他にも原町と言うバス停があるのかな
相田梅太良頌徳碑
三木武吉撰
三木武吉の名前が出るのは珍しい
相田梅太良(1884~1963)
原町村長、県会議員・議長、民政党支部長。明治17年3月10日、下浮穴郡麻生村(現伊予郡砥部町)で木蝋製造業の家に生まれた。
原町村長、県会議員・議長、民政党支部長。明治17年3月10日、下浮穴郡麻生村(現伊予郡砥部町)で木蝋製造業の家に生まれた。
東京専門学校(現早稲田大学)に進んだが、家事のため退学し祖父の業を継ぎ、酒造業も経営した。村会議員・郡会議員を経て大正4年県会議員になり1期務めた後、昭和2年から4期連続21年12月まで県会に在った。
その間、9年12月~10年9月、12年12月~13年12月、14年10月~17年12月と三度県会議長の重責を担い、温厚篤実な議会運営は定評があった。憲政会一民政党に所属、戦時中は民政党支部長として武知勇記らを支えた。
7年愛媛新報社専務取締役・社長になり、9年伊予果物同業組合長、2年3月~10年9月と15年12月~20年11月原町村長、19年県森林組合連合会長として、地域行政と産業振興に精魂を傾けた。昭和38年1月10日78歳で没した。のち砥部町原町支所前に頌徳碑が建てられた。(『愛媛県史 人物』より)
相田梅太良先生は明治17年3月愛媛県伊予郡原町村に生を享く資性温厚湧くが如き智謀を秘めて誠実事に當り人皆其の徳を慕ふ若干にして難治の郷村自治確立の為めに奔走し克く其の実を上げ爾来村会議員農会長等に歴任する事37年県会議員在職亦二十有三年此の間三度議長の要職に推され県政会の至宝と仰がる更に県下公共団体の長をして精魂を盡し地方産業の興隆に寄輿する所大なり茲に郷党相謀り先生不屈の徳業を讃えて碑を建つ
昭和27年9月
相田梅太良翁頌徳會建立
昭和27年9月
相田梅太良翁頌徳會建立
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