峠に到着
手印(左)
へんろ道
山口県周防國宮市
施主 久保庄之助

来た道
左方に、送電線の鉄塔へ行く道あり
この古木はもう、枯れたのかな?
以下引用
昔時、四国遍路は、順路として歯長峠を越えたものである。峠の上には茶店もあって、万一の時には泊のてもくれたようであった。
峠を越えれば、隣り郡で宇和平野が開けている。
近く歯長寺と云う寺もあって、郷土史的にも貴重な古文所が保存されていると聞いた。予讃線が宇和島迄延長された今日はもう歯長峠を越える人もいなくなった。
峠を越えれば、隣り郡で宇和平野が開けている。
近く歯長寺と云う寺もあって、郷土史的にも貴重な古文所が保存されていると聞いた。予讃線が宇和島迄延長された今日はもう歯長峠を越える人もいなくなった。
私は、最近と戦前、二度越えた事がある。住む人も無い峠の茶店は、風雨にさらされてぽつんと残っていた。庭先に李の老樹が今尚盛んに枝葉を広げていたのが印象的であった。峠道も荒れて、今はもう完全に廃れた峠となっていた
畦地梅太郎
歯長峠・窓の峠(抜粋) 「あしなか」畦地梅太郎(昭和28年)山村民の会出版
この木の事だろうか?
するとこの木は桜でなく李(すもも)?
立間村?
明治とか、大正の年号が見える
仏木寺方面
前述の登り口から歩くとここに至るのか?
歯長峠・窓の峠 畦地梅太郎
土佐湾の南の方へ流れる四万十川(渡川)の支流、広見川、三間川の流域は伊予の山間部落である。
四万十川の川口までは延々二十里近くもある。
また、源流に連なる山脈を超すと、近々二里で内海の宇和海に出られる。
広見川流域は平地が少ないので水田もあまり開けていない。
三間川一帯は広大な平野になっていて、その周囲は最高900米弱からなる山々に取り囲まれている。
盆地の凡てが水田で、この地方きっての穀倉になっている。
三間平野は水田のため流れが汚れるものか三間川には、鯉、鮒、その他のその他の魚は殆ど住み付いているが、鮎は登ってこない。広見川は渓谷的で水も清い故か、盛んに鮎が上る。
土佐の川口をもとにして考えると、二十里もさかのぼった山村と云えば、ひどい寒村と聞こえるが、峠ひとつ越せばこの地方での中心地、宇和島に近いので、寒村ではない。今日では土佐の村人も汽車を利用して日用品の買入には宇和島へ出るのである。
三間平野の西北方に、六二三米の突起がある。その肩を超す道、歯長峠である。
登り口に歯長の部落があって、そこが三間川の源流である。
土佐湾の南の方へ流れる四万十川(渡川)の支流、広見川、三間川の流域は伊予の山間部落である。
四万十川の川口までは延々二十里近くもある。
また、源流に連なる山脈を超すと、近々二里で内海の宇和海に出られる。
広見川流域は平地が少ないので水田もあまり開けていない。
三間川一帯は広大な平野になっていて、その周囲は最高900米弱からなる山々に取り囲まれている。
盆地の凡てが水田で、この地方きっての穀倉になっている。
三間平野は水田のため流れが汚れるものか三間川には、鯉、鮒、その他のその他の魚は殆ど住み付いているが、鮎は登ってこない。広見川は渓谷的で水も清い故か、盛んに鮎が上る。
土佐の川口をもとにして考えると、二十里もさかのぼった山村と云えば、ひどい寒村と聞こえるが、峠ひとつ越せばこの地方での中心地、宇和島に近いので、寒村ではない。今日では土佐の村人も汽車を利用して日用品の買入には宇和島へ出るのである。
三間平野の西北方に、六二三米の突起がある。その肩を超す道、歯長峠である。
登り口に歯長の部落があって、そこが三間川の源流である。
歯長峠・窓の峠 畦地梅太郎「あしなか」畦地梅太郎(昭和28年)山村民の会出版
歯長峠は、三間町と吉田町と宇和町の境界に位置する。そこには見送大師を安置する「送迎庵見送大師」と呼ばれる大師堂(写真1-2-5)が建立されている。大師堂は、吉田町大河内の町有林(旧立間村有林)の中にあり、古くは辻堂として峠を行き交う遍路や馬子(まご)たちの信仰を集めていたという<18>。地元の人の話によると、この大師堂は、もとは六角屋根の木造のお堂で、「四十二番札所仏木寺奥之院」の木札が掛かっていた。しかし、昭和39年(1964年)に遍路の失火によって焼失し、昭和42年に地域が大干ばつに見舞われた折に、「あのお堂の地蔵さんを雨曝(あまざら)しにしている崇(たた)りではないか。」と資金を出し合ってお堂を再建したという。現在はブロック造りの簡易なお堂となっている。
この大師堂では、吉田町大河内の人たちが、昔は毎年3月の縁日に餅(もち)やミカンなどを持ち寄って接待をしていたが、現在では、大河内地区の年中行事として、仏木寺の縁日に、供物を持ち寄って大師堂に集まり、家内安全と豊作を祈願し、その後は仏木寺に参詣して帰ることにしているという。
歯長峠には昔は茶店もあった。今もその遺構らしき石が残っている。門多正志氏の『宇和歴史探訪記』によると、明治から大正時代にかけての宇和町内の児童の修学旅行は、歯長峠を越えて三間町の宮野下(みやのした)まで歩き、それから汽車に乗って宇和島に行くのが通例であったという。その時の「峠の茶屋」にかかわる思い出を、「峠に着いたのは昼ころで、すでに幾人もが休憩していた。茶屋には駄菓子、ラムネ、草履(ぞうり)などが売られ、赤ケットを敷いた涼み台も置かれていた。時鳥(ほととぎす)やうぐいすの鳴き声、白装車の四国遍路が鈴を鳴らして、次々と峠を越えて行った姿が印象に残っている。<19>」と記している。
この大師堂では、吉田町大河内の人たちが、昔は毎年3月の縁日に餅(もち)やミカンなどを持ち寄って接待をしていたが、現在では、大河内地区の年中行事として、仏木寺の縁日に、供物を持ち寄って大師堂に集まり、家内安全と豊作を祈願し、その後は仏木寺に参詣して帰ることにしているという。
歯長峠には昔は茶店もあった。今もその遺構らしき石が残っている。門多正志氏の『宇和歴史探訪記』によると、明治から大正時代にかけての宇和町内の児童の修学旅行は、歯長峠を越えて三間町の宮野下(みやのした)まで歩き、それから汽車に乗って宇和島に行くのが通例であったという。その時の「峠の茶屋」にかかわる思い出を、「峠に着いたのは昼ころで、すでに幾人もが休憩していた。茶屋には駄菓子、ラムネ、草履(ぞうり)などが売られ、赤ケットを敷いた涼み台も置かれていた。時鳥(ほととぎす)やうぐいすの鳴き声、白装車の四国遍路が鈴を鳴らして、次々と峠を越えて行った姿が印象に残っている。<19>」と記している。
えひめの記憶
高速道路が見える
茶屋はどのあたりにあったのかな?
遍路道に向かって左方に道あり
歯長峠から南へ一里ばかりのところに、十本松峠がある。歯長峠道の途中から、とっついて参五〇米足らずの頂上には昔松の木が十本繁っていたとか、峠を越えるとそこは、宇和島湾の一角、吉田港を控えた吉田町で、その近在の部落は伊予蜜柑の産地である。
出盛り期になると、町全体蜜柑でうずもれてしまう。
吉田は宇和島藩の分家、伊達三万石で分家の際に三間平野の全部が吉田藩となったので、十本松峠は、公路としても重要な峠であったらしい。
季節になると三間平野の部落から年貢米を背負った馬の行列が延々と幾日も、この峠を越したものだと言われている。
吉田、宇和島両藩は、十本松峠を仕置場にしていてそこで処刑された人々の物語も言い伝えられている。
私がまだ子供の頃は、鮮魚は毎日この十本松峠を、人の肩によって運ばれていた。今はもう山麓の村人がたまに超えるぐらいで、ここもまた廃道に近いのである。
歯長峠・窓の峠 畦地梅太郎「あしなか」畦地梅太郎(昭和28年)山村民の会出版
さて帰ろう
おわり
コメント